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林間こぼれ話
小田原急行鉄道は、開業前の大正14年
(1925)から昭和2年(1927)ごろにかけて、沿線開発の目的で大野、大和、座間を中心に約100万坪を買収した。そのうちの約80万坪は江ノ島線の敷設にあわせて沿線に林間都市
を建設する目的であった。昭和2年春ごろからその具体化に着手した。 この計画は、まず南、中央地区65万坪を区画整理して宅地分譲し、最終的には約5000戸の新住宅都市とする構想であった。
地域のほぼ中央を江ノ島線の線路が通り、東、中央、南の三地区にそれぞれに駅を置いた。区画整理は出来たとはいえ、一軒の人家とてなく、周囲は雑木林の続く広漠たる原野であった。
そのただなかに出来た三駅に利光鶴松社長はそれぞれ「東林間都市」
、「中央林間都市」、「南林間都市」の名をつけた。利光は緑のなかに将来生まれるであろう数千戸の壮大な住宅都市を夢み、「林間都市遷都(首都の移転)論」までプチあげていたほど構想雄大なものだった。
実際、計画は雄大であった。駅を中心に放射状に道路が整然と配置され、単に住宅だけでなく、公園、テニスコート、ラグビー場、野球場などを設け、快適な林間都市生活が楽しめる配慮をした。 しかし雄大な駅名に反して肝心の「都市」の建設は一向にはかどらず、林間都市と呼ぶにはへだたりがありすぎて、昭和16年10月に三駅揃って「都市」の名が削られた。ところが今日この辺りは立派に都市化して、この三駅は「林間」の時代に「都市」であり、「都市」の時代に「林間」
を名乗るという皮肉な結果になっている。 小田急50年史より(原文悪文添削要約)
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↑東林間駅(東口)上空
撮影1990年
(1990年上空写真に見る「林間」の緑の形跡は現在ほとんど消滅)
過去の文献に残る「林間」だが、21世紀初頭、「林間」の名称の由来の名残も消滅し、はるか太古の時代の呼称と同類に化した。(ジュラ期ならぬ)
「林間」期。
これからの子供が自分の故郷の地名「林間」の意味を体験して育つことはない。ただの"RINKAN"、東「街区」。
たった数十年で、都市街区化崇拝、無策・無節制の金の亡者たちが「振興」「街づくり」に名を借りて、自らの代、そして子孫から、「都市と環境の共生」理念の「地名」の実質を奪ったのである。
はるか昔の無節操じみた開発者でさえ考えていた「豊かな緑環境との共生」「林間都市」構想の完全なる終焉こそ、人心ごと「荒野」に戻ったと言えよう。東林間の"リンカン"を取り去って「東林・トウリン」と機械的に呼称させた行政、あるいはその名を提唱した者の出現を見た時点で、すでに「緑の林の間に存在する環境都市」構想は終焉していたと言うべきなのだろう。
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↓1941年(昭和16年)7月:東林間高高度上空
東林間駅舎 1953年(昭和28年)新築当時
東林間駅前踏切&大通り 1958年(昭和33年)当時
東林間駅舎 1961年(昭和36年)ごろ
東林間大通り 1961年(昭和36年)当時
もっと昔 東林間 1883年地図
・まちづくりの計画図 (=ただの協定道路・塗り絵)
・「個性ゆたかな商業空間の形成」絵図 (=ただの現状成り行き、-イラスト屋さんがキャッチコピーこじつけただけの-
絵図)
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2003年詳細航空写真(3MB)→Click
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