"LOW-FLOOR SHOPPING-PROMEUNADE" PROJECT 1985 / 1988
← H邸 in                           Cafe in →
 
(座間市) 小田急相模原駅北口 西地区再開発計画を問う
 

誰が望んだのか??再開発

その歴史的経緯と、謎の官民コンサルタント主導の「街壊し」

文責:OokWood設計工房
(一級建築士事務所主宰:大木正美)

 お上(カミ)が突如言い出したこの再開発計画に襲われるまで、私はこの街区の住人であった。
 私の生まれ育ったふるさとであり、そして私の二人の娘たちにとってもふるさとの地だ。
 

 この街区の一角、敗戦直後、昭和21年に建ったという、もっとも貧しい時代の二軒長屋がそこにあった。その片側が私の生家。

 

 


 物心ついた頃の記憶で、すでにスキマ風だらけ、建物全体相当に老朽化していた。
昭和43年、両親一家は東林間に住宅新築を果たし引っ越した。しばらくしゃうもない放置空き家だったが。ご近所でさらに狭い借家暮らしの御一家に乞われて木賃借家として住まわれ、残ってきた。

 私は両親・兄妹とは別に、勤労学生として都心文京区の寮暮らしを得て先に家を出た。その後所在のない放浪的な生活に明け暮れたが、所帯を持ち、新しい家族も増えた。手を加えれば2Kアパートよりは間取りでまだマシな生家を、親から家賃ゼロで借り受け、再び住んだ。 

 その廃屋同然の家屋を自力再生して小さな建築設計室と、「金太小屋」という喫茶室を、住居兼開設した。

 

(遡れば、モチーフは、20歳のころ、青春の模索放浪旅。寝袋とバックパックひとつ北米大陸をヒッチハイクでさすらって根付いた感覚による。
 当時街道には反戦・平和、Love & Peaceのドロップアウトとヒッピーがあふれていた。行き先定めぬ道行き、乗せてくれた大勢のシンパシーの方々に、いわゆる「一宿一飯」のお世話にな りっぱなしだった。ボランティアで運営された無料宿(私有の雨露しのぎ場所)も各地に点在していた。)
  

 小田急相模原駅前立地に、廃屋同然といえ、親から労せずしてもらったも同然の建物は、ステーション前の場所柄、そういう青春模索の同輩・後輩たちの、旅立ちの前の鋭気を養える場所として恩返しようと思った。
 しかし駆け出し設計家の稼ぎでは喫茶室の運営費をサポートできる力量はなく、家族の全面的協力・犠牲でかろうじて存在していた・・・)


 子供たちにとっても生家として10年余すっかり根を張ったころに、突如、街区一帯をガラガラポンする再開発計画、巨大な高層集複合ビル計画の情報がやってきた。

 そんな計画、街づくり、いや!街こわし!

 いったい、誰が望んだのか?!
 少なくとも私たち一家、お隣さんたち住民ほとんど誰も望んでいなかったはず!

 住んでいる住民にアンケートを取ったでも何でもない!
 どういう街づくりを望むか?でも何もない!

 ただ「再開発をしたい」という意思を持った者は、ただバブルとメンツの発想の、いや行政とタッグを組んだ「コンサルタント」と称する巨額仕事の創出仕掛け業者。(「公益」と称した商売・魚の目・鷹の目)

 住民の住まいのほとんどは、ウチの家屋同様、老朽化していた。しかし、それぞれの自力の資力なりに、手入れも再生も建替えも収益化も自由にできた。
 そこを、「資金の持ち出しはない」「等価交換」という(実は土地資産を当てに高層部マンション販売商売をもくろむ)砂糖をまぶしたスイートな夢物語で、経営観念のない無垢の人たちを幻惑しにかかった。

 そこに「街づくり」などと呼べる住民の息吹はない。 

 息吹どころか、息をさせない、「都市計画決定」という個々の建物の建替えを一切できなくする強権法の網かけがすでに既定の路線に仕組まれていた。
 
 この「決定」という、これも誰が決めたか?!誰が望んだか?!誰の真意要望でどんな代理権限をもって決めたのか?!
 そのプロセスは、すべて計画進行!ありきの、謀略的工作(住民自主自発意思による「再開発組合」の発足という名目、機能しない組織を発足させる工作)で。
 その工作によって既成事実化しただけの、無謀な大本営命令の突撃に似る。

 座間市で一番資産評価が高い(つまり一番税金を徴収している)街区で、しかしながら実は、「行政域のはずれ」として、水道・下水・道路歩道・・ほか、もっとも公共整備を怠ってきた。その上、これからの整備出費はさらにこのガラガラポン(県・国の補助金あて)に組み込もうという算段。 これまでの落ち度を我田引水のネタに変える、絶対タダで起きない金才。
民間資産、国・県の予算をあてに、自腹をできる限り切らず、金づるを見つける才には心底感心する。すぐれた官僚群像。


--------------------------------------------------
 行政がこの再開発企画をネタにすでに網掛け規制の準備と、事実、個々の建築計画に事前指導として建て替えプランの抑制を押し付け始めた。防火地域指定で、大好きな「木の建築」も出来ない。嫌気が差していた時に地上げ師に翻弄されて、私たち一家自身はその地を去った。

 「個々の個性・息吹を」と謳いながら、「金太小屋」が去った跡地は、老朽木造よりもっと空気を乱している?(笑)ツルピカビルが建っただけの街こわしに私自身手を貸しただけ。
 もはや自嘲でただ見て見ぬ振りを決め込む一時期があった。たとえ私一人ががんばった所で、あの悪評高いツルピカ本庁舎を「これが美だ!」とばかりバブり煽り立てる行政と感覚が合うわけがない。


 

 

 ただ失ったものの大きさを改めて思い知った!

 しかし、うれしいことに、隣人お年寄りが次の世代に事業を任せた新たな個々の建築計画の相談を承り、私の感覚と共鳴し合えて、建て替え計画の依頼を授かった。

 ほとんど行き当たりばったりの自然発生的ながら、自分たち蟻んこがうろうろ触手を触れ合いながら育ち、築いていった、そして人間味豊かに機能している街を、ただ儲けたい者がためのただの醜い粘土の塊のような街にしてはいけない。


--------------------------------------------------

 時代は回る。
モダン・「最新」とは、一時も止まることのない時間の中で、発生と同時に常に時代遅れ
「目新しさ」を求めたニーズに常に追い越される。

長い時間の流れを携えられる街づくりにならない、時間の記憶を失った街は、刹那の繰り返しの、いつも人に忘れ去られる、荒廃と破壊の繰り返しの街でしかない。


 

 テナント付加住宅 H・A邸が完成、「公開」の催しを与えられた折り、タイトルに、「あえて低層プロムナードへ」 という展望を披露させてもらった。

(若い世代・建築主が切に望んだ「木の住宅」。地域防火指定発効直前の、この駅間街区最後の新築木造住宅)

 いずれすぐ押し寄せる「時代」にかみ合わなくなるだろうが、迎えるべき「時代」が「正常」なものであろうはずがない、設計者とも確信の「レジスタンス」だった。 
 
 アメリカの「豊かさだけを追った代償に失った心の荒廃を取り戻そうとするムーヴメント」の真っ最中をさ すらって実体験して来た
物質的豊かさを求めて、国を挙げてお祭り真っ最中の日本に舞い戻った時の感覚は飛び過ぎた(?)感覚だったかも知れない。
 そういうハミダシ・アーキテクトの構想に、隣人の後継世代・同世代のインテリジェン豊かな人たちからの依頼、あらたな賛同を得て、かなり明確な道筋が見えてきた。

 
 

 歴史的な経緯は、戦時中に陸軍病院(現・国立病院と引き継がれた)乗降駅前として商店が軒を並べた。
 高度成長期、もっとも住宅激増地となった小田急相模原を商圏に大型スーパー「忠実屋」第1号店が辰街道西に出店した。
 駅からのアプローチに通り抜けの近道として(昔はどこにでもあった)軒先の間を縫うような通路、私道が、横町化し、商売の利を得た。
 車の一切進入しない(毎日が「歩行者天国」の)さしずめ青空市場のような、人々の営み、息吹の、個性とバリエーションの横丁空間である。

 その庶民型スーパーの斜陽と命運を共にして、活気を失ってはいるが、この時代的横丁に、あらたに二足歩行ヒューマン目線の「クランク」や「広場溜まり」を持って合流する、「再生」 計画が、等身大のスケールゆえ受け入れられた。

 日本全国同じ景色に反逆する個性と独創の商才をもった者が活躍する可能性に期待を預けたい。
(テナント家賃の支払い上、楽市などとは言えないが、アイデアや企画の才に長けた数人の集合と連帯があれば、限りない体温空間の可能性を持ち続け得る。)

 現代的無機質新都市空間などとは対極をなす未来 空間なのだから。
  
 「プロムナード」などと昔をひきづってシャレるより、ゴキブリ人情横丁といった 俗な個性で残って行くのも一つの期待だ。
 現代都市が雑多なものとして整理してしまう空間の、失ってはならない
”ヒューマニズム”だからだ。
(ちなみに、この一帯のほとんどは、テナントオーナーも階上に居住を続けていて、示し合わせた訳ではなかろうが、風俗店が一店も入りこんでいない。一種独特の古き良きコミュニティ・モラル が存続するのだろう。)
 
 「街」とは、こうありたい。


 その後まもなくしてバブルが到来した・・・ 

 ・・・そして去った。 


 今に至って、そのときのレジスタンス、時代錯誤?感覚が、実は、間違いなかったことを、手前味噌だが、再認識して、溜飲を下げている。


 しかし一方、バブル期に唐突に、地域的構築など一顧だにしない権力者的発想で、、街区一挙すべてをガラガラポンして、壮大なボリュームビルディングに集積してしまおうという市街地再開発事業が計画発案され、現在も進行している。

 「駅前には高層の集積ビル」であるべきというような、高度成長一方期の
固定観念(?)の、ヒステリックな様相でいっこうに引き際を知らない。

 すべて「都市計画」などとは程遠い、コンサルタントと称する巨大プロジェクトゆえの巨大利権セールスマンの暗躍と、それに踊らされる、考える能力者不在の行政レベルの問題 である。

(近頃新築の市庁舎を知れば、そんな想像があながち的外れでないことがわかろうと思える。まるでバブルの真っ最中に建ったのかと思えるほど、今時パチンコ屋でも使わない安手 のツルピカデザイン手法で、市庁舎を仕上げた手合いが大手を振っている村、いや曲がりなりにも、市だ。)

 一大ボリュームの建物は、少なくとも、そこに集積居住する人間がすべて一同に降り立った時、地表平面上にその人数で憩える 敷地の余裕がなければ、それは、もはや人間の住む空間ではない。
 法的な「建ぺい率」とか「容積率」とか以前のヒューマン基準である。  付近一帯密集の駅前街区で、交換土地代・建設費経費を最大ボリュームで賄おうとする発想に、今の時代、どうまともな折り合いが取れるのか?!
 保有台数の車庫を、どう採算経費とも詰めこむのか?!
 車路出入り口を、周囲慢性渋滞の周辺街路のどこにくくりつけるというのか?!
 
 隣接ブロックの「忠実屋」一号店は平場の駐車場用地をもともと余裕見て、空地比率が高かった。その跡地を買い取ったディベロッパーが、採算に合う目一杯のボリュームで建ててどのような建物をつくり得たか、いまや、その隣の実例付きで、ど素人でもわかり得るだろう!

 私の関わった方々は、ただ経済成長など知らない苦難の時代、たまたま、名にもない細々住み付けたところが、駅のそばだけだったつつましき庶民そのものである。ごく普通の住宅建て替え同様、資金とローンで頭を悩ませ、分相応の経済力で新築を果たし、少なくとも住居的改善を得た相応の暮らしをされている。
 唯一特有の恩恵は、住居の一部を、この横丁プロムナードに向けたテナント部分に投資できたことである。収益で、すでに借入金分の完済を越えている由。

 すべて人の金、自分の腹の痛まないところで煽る、未来を考えている? という行政の思惑は一体何なのか?自分たちでは good と思っている(?)市庁舎のような、体裁・メンツを達成したいのか?それとも、県の「補助金」こそがおいしそうなお目当てで、今まで放置して無策に残してしまった、「都市部」の整備経費をこの際しっかり便乗して浮かす使命を担っているのか?いずれにしても、この街を営んできた人々、お年寄りたち「人間」の形跡をいとおしんでいく目はない。


 そのむかし、建築をペンに持ち替えた松山巌氏がその著作で不気味な始まりを指摘した、生地 「超高層(霞が関ビル)の谷間(ハザマ)」あたりを発端とする、人の心を飲み込むブラックホールの同心円波紋が、長ーいサイクルをもって、ゆっくりジワジワ振幅を伝え続けている。どこの地まで、どこの人の心まで果てしなく届くのか・・・



 手塚 治は、ライフワーク「火の鳥」未来編で、巨大建築の行き着くところ、その都市全ての住民がひとつの集積した超巨大なタワー建造物都市に住む未来構図を描いた。(そしてすべて中央コンピューターで制御され、そのコンピュータの判断ミスひとつで全て灰燼に帰す・・・)

 マンガの世界が確実に現実に進行している愚かさ・怖さ。
平成バブルのツケであえぐ建設・不動産業界救済のためだけの真に愚かな容積率緩和変更。「バカは高い所が好き」とヒヤカシた昔の人の予見力はたいしたものだ。
バカの数が多数になると、バカでない人がバカ呼ばわりされるバカな時代が来る・・・(失笑)


 人 間が生命であるのと同様、その文明文化も生命体そのものといえる。
 力をつけた筋肉も、活力源を運ぶ血管も育つ一方だけではない。
 社会も「路(street)」もまさにそれに該当する生命現象と同じだ。
早く「質」を維持する健康法を悟らなければ、突然死を迎えるのは明らかなのだ。
 この狭い曲がりくねった、都市デザイン形態として理想的な!「人のよどみ空間の横丁路地」も、年月をかけた人の営みで形づけられてきた。
 そして、ちゃんと機能する。
 小さきと言え、社会の「血管」である「路」の経緯を食いつぶした増殖は、もはや、本体死をもたらす「癌」に変質したというべきだろう。


小田急相模原周辺 昭和11年 上空にワープ(82KB)jpg

HOME